2024/03/16 ヘレス渡航手記 【若者が頑張ってた話】
ヘレスに有名なタブラオがある
guarida del angel というところだ
とある日、何も予定がなかったのでふらっと立ち寄ることにした。
フェスティバルの期間中は有名な方々がそこで毎日ライブをしているのだが、「行きゃ誰かいるだろう」そんな感じでふらっと行ったのである。
チケットを買い、中に入ると、人が20人くらいしかおらず、閑散としていた。
舞台には10代くらいと思わしき若いギタリストと、優しそうなおじさん歌い手のふたりが椅子に座っていて、カンテライブみたいな感じであった。
何となく席に座り、何となくずっと聞いていたのだが、結論から言うとなんとなく、場の空気が暖かく、ほっこりするいいライブであった。
多分プチライブみたいな感じだったんだろうな。
関係者や親族みたいな方々がいて、ギターの男の子はたどたどしく一生懸命弾いていて、歌い手のおじさんはそれに歩幅を合わせて歌っていく。
(たどたどしくギターを弾いていたとか言ってるけど、普通に上手いし、でも若手みたいな感じ。)
こういう有名なタブラオでやることはとっても緊張することだと思うし、人に見られて演奏するのもとても緊張すると思う。
そういう所から、彼はどんどん経験していって、どんどん上手くなってくんだろうなー、みたいな、彼の歴史の途中経過を見てるような感じがして、結果的にいいライブだった。
おれもがんばろっておもった。
2024/03/14 ヘレス渡航手記 【べちょべちょのパエリア】
熱くてモテないカフェコンレチェ
僕が本国スペインで初めて食べた思い出のパエリアは、雑炊なんじゃないかと言うくらいのべちょべちょのパエリアであった。
「スペインといえばパエリアだろう」
なんて安直な理由で、1度目の渡航の際に入った店がある。「Ola〜」と出迎えてくれたのは、キリッとしたアンダルシアの方ではなく凄く馴染みのあるアジア顔の多分中国人の方で、入って出るのも失礼にあたるかと思って「もういいや」と思ってそこで頼んだ人生初の本国パエリアが、そのべちょべちょのパエリアだった。
なんてことが7年前にあって、場所も覚えてて
「もう食べることは無いだろう」
と思っていたのだが
「あ!カイトさんだ!!!!」
と言う声がして振り向くと、そのべちょべちょのパエリア屋さんに知り合いがいたのだ。
夜ご飯に混ぜてもらい、旅路をそれぞれ報告しあっていた。
中国人の店員さんは見当たらなく、
「あ、経営者が変わったのかな!」
とおもい、知り合いたちがパエリアを頼んだという話を聞いた時に少しヒヤッとしたが
「もう7年も経ってるし店の中の顔ぶれも変わってるし大丈夫だろーな…」
と思ったので楽しみに待つと
べちょべちょのパエリアが来たのである。
帰りがけに店の奥を覗くと、前に見た中国人らしき一家がのんびり佇んでいた。
そう、多分想像するに、7年で人を雇えるほど経営が良くなり、多分前線には出なくなったのだろう。
7年振りのべちょべちょのパエリアは、心做しか美味しく感じた。
2024/03/08 ヘレス渡航手記 【格言を貰った話】
めちゃうまの魚のやつ
格言を貰った話。
すごく悩んでることがある。
フラメンコをどう説明すればいいか。
レマーテをどう説明すればいいか。
フラメンコの中で大切なことはとても多く存在してるが、大きな部分に、ぼくはレマーテがあると信じている。
レマーテが分かるようになったのは、2回目の留学の時の、ルイスペーニャのクルシージョをうけた後の事だった。
それまで分からなかった事であるが、彼のクルソにを受けて何かがわかるきっかけを手に入れた。
数年後、僕がフラメンコギター講師になって、踊り伴奏のセミナーやレッスンなどを日々こなしている時に、レマーテについて上手く言語化できない日々が続いていた。
どうやったら伝わるんだろうか。
たとえばこの感覚は、幽霊が見える人と見えない人みたいな、色が識別できる人と出来ない人みたいな、聞こえるヘルツと聞こえないヘルツがあるみたいな、なんかそんな感覚なんだけど、でも絶対訓練次第でみんな分かる事なんだと思うんだけど、それを言語化するのにとても苦労していた。
どうやったら伝わるのか、友人と相談して頭を並べて考えたこともあったが答えは見つからなかった。
サン・ミゲル教会の近くにピソを借りている私であるが、レッスンは専らサンティアゴ地区。
ピソ歩いて30分の所にアネのスタジオ、40分のところにへススの家がある。
ある日へススのギターのレッスンが終わってから、コンパスパルマのレッスンをアネに教わる時があり、思い切って拙いスペイン語で聞いてみた。
「フラメンコには色んな大切なことが沢山あると思う。けどその中でぼくはとても大切なのはレマーテだと思ってる。
どうやって知らない人にレマーテを説明したらいいかな。そしていつそのレマーテに気がついたか聞きたいです」
なんとなく、フラメンコの土着した土地に住んでる彼らなら、その簡略化されたわかりやすい言語化ができてると思っていた。だから、日本人の僕が考えることよりも遥かに分かりやすい答えを持ってるんだろうなという、淡い期待を持っていた自分がいた。
アネは一言だけ答えた。
「めっちゃ聞くしかない」
続けて、いつレマーテを理解したかも話してくれた。
「この土地に生まれて、色んなアルティスタに恵まれた。周りにたくさんのアルティスタがいて、近くにルイスデラピカ(ペーニャをやるバルみたいなところ)もあってとても身近にあった。子供の頃からやってたから子供の頃からそれを見てて、子供の頃からそれがわかった。でもそれは沢山聞いて、沢山経験したから。だから分かるようになった」
僕が考えてる事を「そんなの簡単だよ」っていとも簡単に施錠を解除できる答えを期待していたけど、多分心のどこかで、「もしかしたら沢山聞くしか方法が無いのかもしれない」
というのはなんとなく想像していたけど、彼の言うことを聞いてやっと腑に落ちた。
聞かなきゃ分からないし、言語化出来たらとうの昔にみんな出来てるし、だからずっと勉強しないといけないし、経験しないといけないんだっておもった。
わかっていたことなのかもしれないけど、改めて答え合わせをできた瞬間だった。
並びに、「沢山聞いていくしかない」ことが唯一の近道であり、唯一の正解なんだ、彼らもそうやって育ってきたんだということを理解できた瞬間でもあった。
だから、沢山聞く。今日も明日も、これからも。
という、格言を貰った話でした、
2024/03/06 ヘレス渡航手記 【言いたかったこと】
さんみげる……だったはず
ヘレスに来て2週間くらいが経った。
あまりにも濃い経験と感動が1日1日重なり、処理するのにとても苦労する。
以下、あったことを書き記すことにする。
ヘレスに来てから確か3日目に、ギターの師匠であるJesusに再会を果たすことが出来た。
前回のスタジオとは場所が変わり、サンティアゴの奥の方へ引っ越したらしい。
久しぶりに彼と会い、レッスンはいいから飲みに行こう!となり2人で飲みに行くことになった。
イワシの酢漬けとミートボール、そして大好きなオロロソを頂き、約6年ぶりの再会に乾杯をした。
「今ぼくは日本でギター教えてるんだ」
「うそだろ!?先生なんか!??みんなに紹介しなきゃなんないな!おいみんな聞いてくれ!こいつは日本でギター教えてるんだぜ!!」
「やめてえええええええ」
などというからかいを受けたあと、ぼくはついに、言いたかった言葉をついに言うことが出来た。
僕の拙いスペイン語をゆっくり聞いてくれた。要約すれば、
「1.2回目の時の渡航の際、ぼくはSiかNoしかいえなかった。右も左もいえなかった僕に君はバカにすることなくたくさんのことを教えてくれた、だから僕は今日ここにいることが出来る。フラメンコが分かってきた今、あなたには本当に感謝をしている。何も分からなかった僕に大切なことを教えてくれて本当にありがとう。僕はヘレスが大好きです」
ということである。
ずっと心の奥にしまっていた言葉を言えた瞬間であった。
「気にするなよ、当然の事だあの時があって今がある、いい事じゃないか!」
なんて事を言ってくれた。
それから新人公演出たんだよとかライブしてるんだよとか、色んなことの6年分の活動報告をさせて頂き、レッスンをしてもらった。
悩みのうちの一つを明かした。
「ブレリアデヘレスが大好きなんだけど、それが出来ない。日本はヘレスじゃないしヘレスがない。車はあってもガソリンがなくて動かないんだ」
「そうだね。ガソリンが無いね。帰るまでに沢山のガソリンを入れよう!!」
そうやってギターのレッスンが始まった。
コンパスを教えてくれたAneにも、
「最初来た時ぼくはSi、Noしか言えなかった僕にたくさんのことを教えてくれてありがとう」
という事を言えた。
「何言ってるんだ当たり前じゃないか従兄弟よ」
みたいなことを言ってくれた。なんかあったらすぐに従兄弟や家族になれるのはここでの素敵な文化のうちの一つだなとおもった。
取り急ぎ、恩人へ挨拶ができたのが何よりの報いだった。
フラメンコは人生だし縁だと思う。
ぼくは最初この人達 JesusやAneに会えた事がとても大きかった。だから今があるし、ヘレスのノリが好きになってここまでやって来れた。
「袖振り合うも多生の縁」という言葉が好きです。
袖が触れ合っただけの存在でも、前世に何か縁があった人なのだという諺。
僕は前世や来世を信じてる人なのでこと言葉は刺さるものがある。
人って全部ご縁。
だから繋がるし、自ずと紡いで行けるんだと思う。
フラメンコは人生そのもので、ご縁を紡いだそれまでの轍や生き様そのものなんだと思う。後ろには今まで歩いてきた自分の足跡の轍があり、前にはずっと道が存在してる。そういうことだと思う。
ここに来て、ギターを弾くよりも踊りを踊った時の反応の良さがとてもすごいと感じることが多い。
「ちょっと踊ってみなはれや」
そうやって踊って、レマーテ終わった時の周りの歓迎具合が半端ない。これは一体なんなんだろう。
言語化がまだ出来てないが、10年近く学んできたギターをやるより、踊りの方が遥かに歓迎具合が1000倍くらい違う。
踊りをやったのは6年前セビージャに2週間滞在してた時にLuis peñaのオープンクラスに知り合いに誘われて行ったのが初めてだった。
それまで今思えば何がフラメンコかよく分からなかったのだが、彼がしきりに
「ベイ…」
って言ってたんだよね。そこから
「ベイ…ってなんなの?」
って言うところがあった。
レッスンは本当に単純で、ブレリアで、その場から動かずタイミングが来たら3歩前に歩いてなんかポーズを取って「ベイ…」って言うだけの簡素なレッスンだった。
そこでめっちゃ人いたのにLuis以外の人間は「ベイ…」って言ってなかったんだよね。そこになんでか疑問が出来た。
「なんでベイ…って言わんのおまんらは?」
そう感じた。先生がやってる事は見様見真似主義だったのでぼくはのっけから「ベイ…」って言ってたんだけど、言う度に、Luisは静かに︎👍🏻 ̖́-としてくれて「それでいい…」と語りかけてくれた。
フラメンコやってるおじさんが「それでいい…」っていうならそれでいいのかァ…なんて思ってたけど、今思えばそれが全てだったし、その全てをあの時に授かったんだなって思う。
それから少しの間「ベイ…ってなんなの?」という問題にぐるぐる悩んでて、気付いたら出来るようになっていた。そこから「なんか踊りって楽しいなぁ」って思ったんだよね。
だから、友達にブレリアだけ、どうやったら踊れるか何となく教えてもらったり、自分で動画みて簡単な振り取ってみたり、タブラオで自分が弾いてて目の前で踊ってる人たちの振りを見て、なんか出来そうだなと思ったら何となく真似てみたりして、、、
みたいなことをしてたら踊りが大好きになった。
後にその踊りへの理解が踊り伴奏をやるに当たって滅茶苦茶効果的だったから、この気付きは本当に大きかった。
んで、ヘレスに六年ぶりに来て、フィエスタでチョロっと踊る機会を得た時に実践してみたら、もう反応がすごい。フラメンコに包まれてるしフラメンコに抱かれてる感じがするし歓迎されてる感じがあるし、こんなに手応えがあったのは生まれて初めてだった。
日本でやってたら、多分なんか大きい人がそれっぽいことしてて面白く見えるなぁって思われてるのかなとしか思ってなかったんだけど、現地に来て現地でやってみたらすごい暖かく包み込んでくれる周りを見て、僕のやってる事は間違いじゃなかったんだって確信を持てるようになった。
前述したが、この留学は今までの答え合わせ、そして新しい課題の模索である。
この答え合わせは僕にとって新しい1歩が踏み出せたと思う。
これからカンテ伴奏やフラメンコへの理解をもっと深めていくけど、頑張りすぎず、楽しんで学んでいきたいと思う。
色んなことがあったけど、まだまだ色んなことがこれから起こるんだね。
人生を芳醇なものにして、自分のフラメンコを芳醇に出来るように楽しんで学んでいきたい。
相変わらずピソは外の音が丸聞こえでうるさいし、きっと僕の生活音もダダ漏れなんだろうけど、それも楽しんでいこうと思う。
備忘録2週間目手記を終える。
2024/02/21 ヘレス渡航手記 【6年の歳月】
おう、2年振りのブログ更新だ。
(ごめんなさい)
今回40日間くらいのヘレス渡航をしてるので手記をここに投下していくことにする。
実に6年ぶりとなるスペイン渡航。
今回はヘレスに40日間くらい滞在する。
2017.2018と来ていたが、金欠やコロナを理由にそれ以降は全く来なくなってしまっていた。
今年34の歳になる僕は、池川先生の所へ門を叩き丁度10年を迎える、ある意味節目の年となっており、色々感慨深いものがある。
今年2024を10年とするなら、門を叩いた年は2014年になる。(ここでは大学時代の歴を省略する)
2014~17の3年間を踊り伴奏の練習に費やし、そこから行ったという訳だ。
改めて2017.18を振り返ると、あの頃は本当に何も分からないで行ったなぁ、の一言に尽きる。
ひたすらブレリアしか弾かず、他の曲は何となく理解をして、マルカへの仕方やレマタールの仕方もなにもしらず、一心不乱にギターを弾いていた。
まずこの振り返りをして思うことは、当時の僕に教えてくれていた先生達である。へスス、アネ、アルベルト、池川先生。視野が狭くフラメンコのフの字も知らない僕によくここまで教えてくれたなと思う。
特に言及するのはへスス。彼はNiño Jero の血筋であるにも関わらず、僕がMoraitoが好きなためMoraitoのファルセータばかりを強請ってしまっていた。
その癖自分が弾けないと頂いたファルセータはやらずに居た。今考えればなんと失礼極まりないことをしてしまったんだろうなと思う、、、、
そんな僕であってもへススは一生懸命弾き方を教えてくれた。期待に応えてくれた。
沢山沢山教えてくれたのだ。
もうこれは「知らなかったんだ」の一言に過ぎないし、改めて知らないことは怖いことだということなんだな…
と同時に「知ってからやる」みたいなのはいつまで経ってもやらない要因にもなるし時間が過ぎてしまうからあまり賛成はできない。
知らなくてもとりあえずやって見て、後で分かった時に効果を発揮するんだ、くらいに思っておいた方がいいのかもしれない。
当初へススが教えてくれていた事は、当初の僕は「フラメンコギターのなんか良さそうなファルセータとかMoraitoのファルセータっぽいものなんだろうな」
としか思っていなかったが、今の僕は分かる。
彼が教えてくれていたのは
「ヘレスのコンパス感、ヘレスのノリ、アイレ、そして他ならぬフラメンコであった」と。
アネにはパルマやコンパスを主に習った。
彼の不思議な掛け声とセンスを最初に見た時はなんかよく分からないの一言で終わってしまった。
「なんかベイとかアイとか言ってるな」
ほんとにそんな感想で終わったのだが、後にこの学びがフラメンコにとっていちばん大切な
「コンパス感」「ハレオ」「センティード」
なんだと帰国後に分かるようになる。
フラメンコギターが好きでフラメンコの面白さが分からずフラメンコにはあまり興味がなかった僕が渡航先で一番最初に見たものは
「ヘレスの最先端のコンパス、ノリ、アイレ、雰囲気、」であった。
フラメンコって植物とかお漬物みたいなものだと思う。
桃栗三年柿八年
なんて言葉があるが、僕に当てはめれば
ブレリア10年フラメンコ一生
ぐらいかもしれない。
例えばファルセータを貰ったとする。それを一生懸命食らいついて先生から学び、弾けるようにして、弾けるようになってからは直ぐに現場でもどこでもパッと出るようにするまでが大変である。魂への定着の問題だ。現実可能なのか何時でも出来るものなのかは話が違う。
いつでも出てくるようにして、それを更に自分の解釈で自分の意志を持って弾けるようになれば、それは自分のものになる。
・先生から弾き方を目で見て耳で聞いて習う
・自分で練習して弾けるようにする
・現場でも直ぐに出るように沢山弾いて慣れる
・だんだん定着する
・自分の意思、解釈を入れていく
・本家をリスペクトする
という肯定を踏まないと、フラメンコってなかなか定着しない。C弾いて「わー!音出たねー!」だけじゃ済まされんのよな。くそ時間かかるから面白いのよフラメンコ。
今この手記を留学2日目の朝10:11に書いているが、外ではアンダルシア弁がバンバカ飛び交っていて、まるで他の住民が生活してるのを忘れているくらいの大きな声で何かを話している。
止まっているピソは外の音がとても聞こえて防音性が全くない。壁を隔てているだけみたいな感じがする小綺麗でいい感じの部屋だ。
ベッドが二つあり、僕は左のベッドで寝ている。
身長186センチのぼくには少し小さいベッドである。家の前の道に車が通ると、窓は閉まっているはずなのに不思議とコンクリのような埃感のある匂いがフワッと室内に遊びに来る。
こういった経験が多分フラメンコを芳醇にするんだろうなと思う。
さてこの渡航、なぜこのクソ円安で換金が苦しい今決めたかと言うと、本当に謎である。天からの思し召し?なんかそんな感じである。
「あ、行こう。呼ばれてる。」
そんな気がしたからというのが正解である。
僕が師匠の元で学ぶようになってから10年の節目であるが、今回の留学は、「答え合わせと次の壁」を探しに来た。
学び始めて3~4年でスペインに行き、たくさんの苗木を渡され、帰国後コロナを経て沢山分かるようになり、見えるようになり、出来るようになり、悩んだり克服したりした6年を経て、今日ここの外の音がうるさいピソでこうやってコチコチ書いている自分がいる。
その渡された苗木がちゃんと成長してるか、僕はこれで合っているか、進む道は間違えていないかを確認するためにここに来た。
そして次の壁は、カンテ伴奏とカンテである。
不思議と今カンテとカンテ伴奏に目覚めてしまい、それを練習しにも来ている。カンテについてはまたご縁のある人を探しに行くつもりである。
ご縁と言えば、人生ってご縁だよねって話をしたくなってきたけど、話が長くなるから割愛する。
そういえば、ヘレスに来るまでなん時間かかったんだろう。計算してみよう。
東京深夜1時出発、15時間後パリ到着、2時間トランジット、3時間くらいでマドリード到着、4時間待機してからレンフェで4時間陸路を移動してヘレスに到着。
だから
15+2+3+4+4ってことか。
28時間って訳だ。通りで疲れるわけだよ…
28時間掛けて来れるのはもう若さだなこれは。40.50代になってできるものでは無いかもしれんから、30代のうちに行っとこ…と悟った。
手記を書くことが面倒くさくなったのでそろそろ起きて行動を開始しようと思う。買い物行ったり片付けしたりしなきゃならない。これから帰国までどんな留学になるかな。どんな日々になるかな。
たのしみです。
みんなおはよう。
桜が舞う頃にいつも思うこと
いやぁ、桜が綺麗ですねぇ
(ブログ1年以上ほったらかしにして何言ってんだよ)
最近ちょこちょこ聞くのが
『ブログ見てますよ!』
とか
『なかなか更新しないですねw』
みたいなお声を頂きます。
いやあもうありがてえよホント
ぼくの気の向いた時しか書かないブログを見てくれる人口がこの世にちらほらいる事がもう奇跡だよね、、、、、、
いやもうマジで1年以上すいません
(今も見てくれてる人いるかは分からん)
いまアクセス解析見てきたら2〜3日にいっぺんアクセス数がピョコって上がってるんですが見てくれてありがとうな
で、何を思って書いてるかというと、
4月になり企業が新年度を迎えて、街にカシッとした着慣れてないリクルートスーツを着た若者が溢れかえるこの季節、過去に僕もカタギとして新入社員として某スーパーに入社していた時期がありましてね。この季節になるとその頃のことをよく思い出すんです。
マジでクソ辛かったなって思い出を…
大学に進学して写真や音楽や広告とかに興味が湧いて
広報とか販促の仕事がしたいなあ…なんて漠然と考えていた当時、
髪の毛が赤だったり金色だったりV系なファッションだったりする友人たちが
みるみる黒に染まり就活ゼミみたいな外部ゼミやセミナー講師が大学に進入してきてた。
就活シーズン到来です。
当時外部講師やセミナー講師に言われて今も覚えてるのが
『就活は結婚と同じなんです。結婚する人はちゃんとしてる人の方がいいでしょ?離婚したくないでしょ?』
とか
『内定出ないやつは社会のレールから外れるんです!』
みたいなことを外部講師とかキャリアセンターの人とかに言われていたけど
いや全然そんなことねえよ?
離職(離婚)してる奴ゴマンといるし
内定でなくても社会のレールから外れねえからな?
むしろレールから外れたあたおかも含めて
社会が成り立ってるんだぜ!
と、今の僕ならいえる。
かくいう僕も今では立派に社会のレールから外れているあたおかです。
(ちゃんと確定申告してるし年金も払ってますが勤めてはいません)
話飛んだけど僕は20〜30社くらい就活をして、そのうち内定をいただいた場所が2社。その中の某スーパーマーケットに就職をしました。
まあスーパーなんで広報の仕事って訳も行かず、中の人からも
「中を知ってから広報に行くといいよ^ ^」
って言われたので、【社員が圧倒的に足らないから現場よろしくの意味】
精肉🍖鮮魚🐟青果🥦デリカ(?)🍛の中から
青果🥦を選んで配属が決まった。
(野菜とか扱う部門ね。八百屋みたいなかんじ)
同期の人たちとも仲良くなれたしいい人ばっかで毎日楽しく研修も一通り終えて
配属決まってスーパーで働くわけです。
まあああああああそれが辛かった
※ちゃんと働く前とか就活の時に調べなかったあたしもわるいんだけどね
4:30起床
5:00出発
5:30〜6:00出勤
12:00休憩
19:00退勤
みたいなかんじで、
業務内容は箱で何十箱もてんこ盛りに運ばれてきた野菜たちの袋詰めとか品出しとかを
ただひたすら何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日やるかんじ。
単純作業と終わらない業務に追われて熱出した時もあった。
でも最初配属された場所はすごいいい人に恵まれてて比較的楽しくできた。
4〜6月の間だったけど、今でも当時の人たちには感謝してる。元気してるかなあ。
結局その後配属された店舗で人間関係が全くうまくいかず
さらに業務もハードになりご飯も食べれず体重も1ヶ月で10キロ痩せて
精神も体も壊れて6ヶ月もいかずにやめてしまったのですが、
その当時強く『好きなことをやって生きていきたい』
と思った原動力が今の僕を作ってるのかなとも思います。
夏の炎天下の中で玉ねぎを袋詰めをしていると
客として入ってきた若者たちが、これからBBQするのでしょう。
僕の袋詰めした玉ねぎを1袋手に取り、男女キャッキャしながら
食材を選んでいるのが目に入った。
僕が毎朝4:30に起きて
朝から心と体を壊しながら袋詰めした玉ねぎです。
空は残酷なくらい青く澄んでて綺麗で
夏の日差しが視界を暗くさせてくる
世間は夏で盛り上がってる中で
僕は毎日心を殺して仕事をしてる。
そんとき思ったんですね。
『俺何してるんだろう?』って。
大学の頃僕はギターと写真が大好きで熱心に打ち込んでいた。
こんなにまでして心も体も壊して人間関係上手くいかなくて
親に高い教育費を払ってもらってこのザマかよと。
大学では就活で内定できない人は人権無いみたいな感じで言われて、
やめたらこの先どうするとかそんなのも分からなくて
分からないこともわからなくて
ただ目の前にあるじゃがいもや玉ねぎを
指先についた泥が洗っても落ちないくらいの量を袋詰めして
あーこのザマかと思った時に
『もう死にたい』
『好きなことをして死にたい』
『俺の人生でやり残したことってなんだろう?』
って考えた先に出てきた答えが
『フラメンコギターを弾けるようになりたいなあ』
だったんです。
あまり思い出したくも無い過去ですが、その時の決意があっていまがあるので、あの経験は僕に必要な人生経験だったんだなって、最近ようやく納得できるようになりました。
新社会人応援してます。
死にたくなったら
フラメンコギター始めるといいよ。
(極論)
お絵かきのトラウマ
年賀状は自分で白紙から書くようにしてます。
今年は牛なので牛肉に塩をかける人を書きました。
年賀状は来た人に返すようにしてるのですが、
今年は保険屋のおばちゃんからしか来なかったので、
ここに貼って絵を供養させてください。
お絵かき昔から大好きだったのですが、中学生のときに夏休みの宿題で理科の科目で植物のスケッチを出された際、めんどくさいのでおかんに書いてもらいました。【おかん、美術高校出身】
結果、入選して図書カード2000円くらいもらいまして。
今まで不真面目な俺のこと嫌いだった理科のオバサン先生が
「あなたもやれば出来るじゃない」
ってはにかんでぼくの肩を叩いた。
これがトラウマで、絵はあまり描かなくなりました。
最近はiPadでお絵描きするのにハマってます。
あけましておめでとうございます⛩